たかだか数十年生きてきただけ、しかも前世紀以来の都市でしか生きてこなかったのに、こんなことを大げさに書くのもどうかとは思うが、言うしかない。
芸術文化の地図を何枚も作成しなおし、なおも世界を歩き続けたい。世界とは、悲惨と驚異の交錯する、この世界のことだ。芸術は生存するための複数の実験であり、文化はその実験を養生する動く大地である。
人間の歴史が変動期に入っている。おそらく地球の歴史も変動期に入っている。人工と自然の境界なく、予測不能、制御不能な事象が、わたしたちの環境を成している。
不安や恐怖が心を奪うこともある。その反動から、閉じられた高揚感や連帯感を欲することもあるだろう。しかし、予測不能、制御不能な事象の集合こそ、地球の本質、そして生の本質ではなかったか。怖れることも、あおることもない。
前世紀、まだ「子ども」だった前衛芸術は、芸術と文化を切り離そうとした。ときに芸術は文化を敵視し、文化の限界を突破する高みに自らを置こうとした。そうこうするうちに、芸術は文化と一緒に大波に流されてしまった。
今の都市に芸術や文化はあるのか。今の都市で芸術文化のどのような未来をつくれるというのか。都市文化などと誇れるものはない。2011年4月に誕生した「Y-GSCスタジオ」が活動しているのは、このまだ不透明な荒地のなかだ。
だからこそ、荒地に残存する存在、人びととともに、地図を描き続けなければならない。それは大学の内外を横断しながら、ということになる。
Y-GSCのスタジオに「進学する」とはどういうことでしょうか?
大学院につきまとう旧態依然たるイメージというのは、「先生」の研究を手伝いながら「研鑽」を積んで、将来、「研究者」になるというイメージかも知れません。暗い研究室と、傷のたくさんついた机と、その上に置かれた分厚い研究書が、そのイメージのアクセサリーになるかも知れません。
でも、Y-GSCのスタジオに「進学する」とすれば、あなたの中にある大学院についての、そんなイメージが払拭されるはずです。ぼくら教員は、自らの研究を「院生」に手伝わせるつもりはありません。ぼくらは、まだ形にならない、あなたたちがスタジオに持ち込んできた「何か」を、協働作業を行いながら、「形にする」ためのミッドワイフ(産婆)みたいな存在です。社会からあなたたちがここへ連れてきた「何か」を「形」にして、再び社会に送り出す──スタジオとは、そのための中継作業をする場です。
まず、その「何か」を共に検証してみましょう。それを「形」にする価値があるのかどうか。それを「形」にするためには、どんな作業が必要になってくるのだろうか。そして、「何か」が「形」になるとき、それを受け取る人々はどう考えるのだろうか。世界にある別の「形」と、あなたたちが世に問う「形」にはどんな関係があるのだろうか。スタジオで行うべき作業は、思いつくだけでも、以上のようにたくさんあります。その作業中に、やはり「形」を模索しているクラスメイトたちとの議論も有効です。
そして、ぼくらの望みは、かなり大きいです。あなたたちが「形にした」ものが、世界のクリエイティヴィティの大きな核になって、これからの「何か」に大きな影響を与えることです。そんな作業を共にする若い人たちの参加を強く期待しています。